7月28日 ボスニア・ヘルツゴビナ(3):サラエボ「様々な歴史の舞台:首都サラエボ」

ブログランキング登録中。清きワンクリックを!→にほんブログ村 旅行ブログ 大陸横断・大陸縦断へ
バシュチャルシヤ:のどかなトルコ風のマーケット。旧市街のメインストリート

サラエボは様々な歴史の舞台。第一次世界大戦勃発のきっかけとなった「サラエボ事件」。旧ユーゴスラビア連邦時代にあった多民族・多宗教の融和を象徴した「冬季サラエボオリンピック」。そして記憶に新しい「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」では、現代の戦争の中で最も長期にわたる都市包囲があった街である。

紛争が終わって10年以上の月日が経った今でも、街中ではまだ弾痕がなどの傷跡が残る。だが、真新しい近代的なショッピングセンターもあり、順調に復興しているように見えた。

幾度もの戦争を経験したにも関わらず、人々はとても優しい。歩いていると、日本人かと声をかけてきて、日本の事を聞いてくる。そんな雰囲気がイスラム教やキリスト教など、様々な宗教や民族の共存を可能にするのだろう。

物価はトルコと同じくらい安く、とても暮らしやすい。私はこの街がとても好きになった。
-------------------------------

「サラエボへ」
-------------------------------
サラエボ駅
電車の時刻はとても早い。宿の主人によると、7時ごろに出発だというので、朝6時頃起きて宿を後にした。

駅に着くと、まだチケット売り場は閉まっているようだ。プラットホームにいる係員に聞くと、電車は7時36分に到着するという。時刻はまだ6時40分頃だ。まだたっぷり時間がある。

チケット売り場の前で、開くのを待つ。7時ごろに一人の白人のおばさんが現れ、チケット売り場を開けた。サラエボへは宿の主人が言っていた通り、10マルク(約650円)。3時間の距離にしてはとても安い。チケットは手書きで発行された。こんな電車のチケットは初めてである。

チケットを手にしてプラットホームに向かった。はじめの頃はあまり人がいなかったが、徐々に人の数が増えてきた。電車は一日に朝と夜の2本しかない。この数少ない電車のために、多くの人がプラットホームに詰めかけていた。

電車は定刻通りに到着。乗客を乗せて、すぐに出発した。電車は3両編成ととても短い。席が個室の相席しかなかったので、そこに座る。正面にはやさしそうな白人のおばさんが一人座っていた。

電車から見える景色はとてもきれいだ。緑がたくさん茂る山々や、大きな湖、そして奇麗な川。オレンジ色の屋根と白い壁を持つ家が広い土地にポツリポツリと現れ、とてものどかな風景が広がる。こんな景色がサラエボまでずっと続くのである。

途中、列車はなにもない場所で停車する。なぜだろうと思ったが、その何もないところから人々が電車に乗り込んでいる。どうやらここが駅のようである。プラットホームがない駅は初めてだ。

「サラエボ到着」
-------------------------------
列車は約2時間半ほどでサラエボ駅に到着した。サラエボ駅は広々としていたが、人々や列車の姿はまばらで、どこか閑散としている。ボスニア・ヘルツェゴビナはあまり鉄道が発達していないようだ。

駅に着くと、早速ホテルの客引きが現れる。値段を聞くと、
「ドミトリーで10ユーロ(1350円)だよ。」
と言う。安い!モスタルの宿にいたオーストリア人は20ユーロが相場だと言っていたが、どうやら安い宿も探せばあるようだ。

ホテルまで車で乗せて行ってくれるというが、まだ出発まで少し時間があるようだ。私は次の目的地、セルビアのベオグラードへの列車を調べるため、駅のインフォメーションへ向かった。

ハンガリーのブダペストに行くのもいいかもしれないと思い、ブダペスト行きとベオグラード行きの列車を両方調べた。

ブダペスト行きは毎朝運行され、値段は105マルク(約6825円)、ベオグラードは朝と夜行があり、料金は42マルク(約2730円)。当初からベオグラードに行こうと思っていたので、ベオグラードに行くことにした。

「宿へ」
-------------------------------
宿はこの通りの右手。なんだか怪しい。
私と同じように紹介されたのは、あとイタリア人夫婦2人だ。彼らは私と同じようにクロアチアからやってきたようだ。客引きは私たちを車に乗せ、宿に向かった。

客引きが宿に行く途中、サラエボ市内の観光スポットの案内をしてくれた。サラエボ事件のあったラテン橋や、旧市街の場所、そして他の都市へ向かう場合の長距離バス乗り場などだ。とても丁寧である。

車は旧市街の近くに止まった。どうやらこのあたりに宿があるようだ。旧市街はトルコ風の建物が並び、地元の人々や観光客がたくさんいた。賑やかだが、新市街のようにうるさい感じではなく、のどかで良い雰囲気である。

客引きがそこのインフォメーションに行ってくれというので中にはいる。そこがホテルのレセプションのようだ。わりと髪が短めで、太めのおばさんが一人立っていた。

表の看板には「8ユーロから」と書いてある。もっと安い部屋があるんじゃないのかと思い、レセプションに聞くと、
「それは100人規模で着た場合の価格だよ。」
という。このホテルには本当に100人規模の宿泊客を泊める設備が整っているのか。正直あまりそのように思えなかった。

料金を払うと、鍵をもらった。そして、
「デポジットとしてパスポートを預かります。」
という。ホテルに泊まるのにパスポートを預けるなんて聞いたことがない。
「パスポート預けるなんて聞いたことないよ。」
そう言うと、おばさんは客から預かったたくさんのパスポートを私に見せてきた。どうやら本当に預けねばならぬようだ。私は素直にパスポートをレセプションに預けた。

するとレセプションのおばさんは、部屋はまた別の建物にあるという。指でさして、
「右に行って最初の信号のところを右に曲がったところにあるよ。」
と言う。ホテルの名前を再び確認して私は部屋に向かう。レセプションのおばさんはいつも私のことを「ボーイ」と呼ぶ。私はもう21歳。だがまだ少年でも良いそうである。

ホテルの部屋を探すがなかなか見つからない。戻ってもう一度道を聞こうとすると、ホテルの人がやってきて道を教えてくれた。ホテルの入口は小さな路地にあり、何も看板はない。これでは自力でわかるはずがない。

中に入ると、キッチンと共同スペースがある。キッチンは4つもコンロがあり、使いやすそうだ。部屋の中に入ると、午前11時ごろだったがまだ人が数人寝ていた。私は自分の場所を確保し、早速サラエボ市内の散策へ出かけた。

「旧市街:バシュチャルシヤ」
-------------------------------
私がまず向かったのが、旧市街のバシュチャルシヤである。この街は昔オスマントルコの支配を受けていたせいか、とてもトルコにいるような感覚にさせられる。建物もそうだし、売っているものも、トルコにあった水タバコや、イスラム風の小物がたくさん並ぶ。物価も同じような感じなので、とても住みやすそうだ。

街にはいたるところにモスクがあるが、同じく教会もある。今まで教会かモスクどちらかに偏った街はたくさん見てきたが、両方同じくらいたくさんある街はモスタールに続いて2つめ。やはりこのボスニア・ヘルツェゴビナは多宗教の上に成り立っている国のようだ。

「チトー大統領」
-------------------------------

露天商に並ぶチトー元ユーゴスラビア大統領のグッズ。いまだに人気があるようだ。
サラエボの歩行者天国となる中心街はだいたい10分程度で通り抜けることができた。この先にも栄えている場所はあるが、サラエボは首都なのだが、コンパクトに収まっている。私は大きい街より小さい街の方が移動するのに便利なので好きだ。

途中、旧ユーゴスラビアのチトー大統領の写真がたくさん貼ってある露天商があり、ポスターや最新のカレンダーが売られていた。このチトー大統領のポスターは、多くの店に貼られている。カリスマとわれたチトー大統領は、死んだ後もそのカリスマ性は健在のようである。

私は市街にある小さなモスクの中に入ってみた。入口で靴を脱ぎ、中に入る。中はコーランが置いてある棚と、何やら上にあがるための階段、そして隅にテーブルが置かれるだけである。とても広々としていた。

階段の先は行きどまりだ。何のためかと思い、モスクの住職のようなおばさんに話を聞いた。あまり英語が通じず、単語を並べて話したが、どうやらアザーン(お祈りをする時間を伝えるお告げ)をするためのもののようだ。

モスクを出る際、寄付を要求された。せっかく見せてもらったので、たった1マルクだが寄付した。

「サラエボの栄光と破壊」
-------------------------------

オリンピックスタジアム近くの墓場。その没年の多くは、紛争のあった1993年や94年である。
モスクへ行った後、私はオリンピック・スタジアムに向かった。スタジアム自体にも興味があったのだが、モスタルの宿でスロバキア人に教えてもらった、スタジアムの近くにあるたくさんの墓を見てみたかった。スロバキア人によると、そのお墓は紛争中亡くなった人々を埋葬する場所がなくなったので、スタジアム隣にあったグラウンドを潰してお墓にしたのだとか。その墓の没年はそのほとんどが1992年、1993年だというから衝撃的である。

スタジアムに行く途中、なにやら一般市民が集まりデモのようなことをしている。周りにいた多くの警官の一人に聞いてみると、
「ストライキだよ。」
という。何のストライキかなども聞きたかったが、警官の機嫌が悪そうだったので、私はその場をそのまま去った。

オリンピックスタジアムの隣に、五輪マークの付いた大きな塔が建っていたのでそこがスタジアムだとすぐに解った。スタジアムには落書き等もされており、人気がなく、なんだか閑散とした雰囲気である。中も見てみたかったが、残念ながら閉じられていた。

スタジアムのすぐ隣には、本当に墓場が広がっている。かつて世界中の注目を得た晴れ舞台の隣に、また逆の意味で世界中の注目を得た紛争の象徴が並ぶ姿は異様だ。ここは、栄光と破壊を表すサラエボの歴史を象徴する場所ではないだろうか。

「教会から墓場まで」
-------------------------------
スタジアムの更に奥に、もっと大きな墓地があるとスロバキア人が言っていたので、私はスタジアムを通り越してさらに奥へと進んだ。歩くと、徐々に墓の姿が見えてくる。全体像が見えた時は驚きだ。なんと丘の片側が全て墓となっているのだ。

中に入って見てみることにした。墓には没年が書かれているのだが、そこには新しいものから古いものまで様々な墓があった。どうやらここは紛争で亡くなった方が埋葬されているだけではないようだ。

しかし、私がこの墓に関心を持ったことは、イスラム教の墓とキリスト教の墓が両方とも隣り合わせであるということだ。イスラム教の墓は主に白い石で、キリスト教の墓は主に黒い石で造られているので、その違いははっきりしている。教会やモスクだけでなく、お墓も隣り合わせ。やはりこの国は、様々な宗教が共存する多宗教国家のようだ。

「紛争の墓」
-------------------------------
次に私が向かったのが、オリンピックスタジアムの隣にある墓場だ。こちらの墓の多くの没日は、紛争のあった1992年や93年を示していた。その数は中心には大きな塔が立ち、埋葬者達の名前らしきものが書かれていた。

スロバキア人の言う通りだった。ここがグラウンドを潰して墓場にした場所だろうか。悲しい場所である。

「レストランへ」
-------------------------------
オリンピックスタジアムに行った後、私は夕食を探した。初めホステルで自炊しようと考えたが、サラエボに来たので現地の料理を食べてみようと思い、レストランを探した。

中心街のレストランはやはり高い。栄えている場所が高いという法則は世界中どこも同じようである。中心街から少し離れると、手頃でおいしそうなレストランがたくさんあるのだが、英語で書かれていないため、全く分からない。唯一英語で書かれているお店があったので、早速入ってみることにした。

私はメニューから「verl mussle」を選んだ。値段は7マルク(約455円)。店員に聞くと、ボスニア料理だというので、これなら良いかと思い注文した。

料理はパンのサービスとともに出てくる。ヨーロッパのお店はパンのサービスがあるのでお腹が膨らむ。料理は少しのライスと、肉の煮物、そしてジャガイモの付け合わせがつく。肉は柔らかくておいしい。私が食べた他のボスニア料理と比べて脂っこくなかったので食べやすかった。

「ホステルへ」
-------------------------------
料理を食べ終え、夜のサラエボ市街を歩いてホテルへ帰った。サラエボは治安が悪いと言うが、私はそのように感じなかった。むしろ治安は良い方ではないか。私の運が良かっただけなのかもしれないが、私はこんな暮らしやすい街が好きだ。

ホテルに着くと、ベットルームの隣にあるコミュニティースペースに8人ほどが集まって夕食を食べていた。どうやら彼らでトマトパスタを作ったようで、
「余ったから食べますか?」
と言われた。それならばと思い、私は席に座っていただいた。聞くと、別にグループで着ているのではなく、昨日今日この部屋に泊まった人達が集まっているだけだった。デンマーク人、ドイツ人、フランス人等様々な国の人々がいる。

ヨーロッパは日本と違って国と国の距離が近いので、海外に行くことは東京から大阪にいくような感覚なのだろう。なのでヨーロッパには国ごとに様々な国の人々がいる。日本ではここまで一度にたくさんの外国人に会える機会など滅多にないだろう。頻繁に海外と接するヨーロッパ人は国際的感覚が高く、関心も高いように感じる。だが、直接海外と接することが少ない日本は国際的感覚が、他の国と比べて低く、関心も低くなるのではないか。日本の外交力の弱さや、外国人に対して排他的な日本社会はこのような環境が一因にあるのかもしれない。

「夜の街へ」
-------------------------------
夕食を御馳走になって色々話した。隣にいたフランス人の女性に、
「いままで行った国の中で一番良かった国はどこ?」
と聞くと、
「間違いなくアイスランドよ。」
という。景色が絶景のようだ。ただ、アイスランドは遠いし、物価がとても高い国なので、今回は残念ながらパスせねばならない。

席にいた皆はこれから飲みにいくのだという。いつもあまりお金がないので断っていたが、ここボスニア・ヘルツェゴビナは安いので飲みにいくことにした。

始め、旧市街にあったトルコ風のレストランに入ったが、アルコールが全く置いていないので諦めた。アルコールが全く置いていないお店は初めてだ。私たちは諦めて次の店に行くことにした。

新市街にいくと、たくさんの飲み屋があった。私たちは適当なところを探して席に座った。

ビールは500mlのボスニア産ビールが一本3マルク(195円)。皆も一杯しか頼まなかった。日本のように居酒屋でたくさんのおつまみを頼むようなこはなかった。

皆とはいろいろな話をした。3人組のベルギー人がいたが、彼らはこれからクロアチアのザグレブに向かうのだという。そこで大きなテクノのイベントがあるそうだ。私にはあまり縁がなさそうだが、彼らはとても楽しみにしていた。

フランス人の2人組みはカップルなのかわからないが、男女の仲はよさそうだった。男の人はイタリアの大学院で都市開発を専攻しているのだとか。今度また違った文化で刺激を受けるために、カナダの大学院に行くのだという。以前は会社に勤めていたようだが、辞めて大学院に行ったようだ。日本と違って、大学院に行っても就職事情は変わらないのかと聞くと、やはり少し不利になってしまうようだ。アメリカでは大学院の上に行けばいくほど良い待遇で就職できるというが、ヨーロッパでは違うのだろうか。

隣のフランス人女性は、なんとジャーナリストだった。テレビや新聞に記事を書くフリーランスの記者で、今までに数回、インタビューしているところがテレビに映ったという。でもあまりテレビに映るのは好きじゃないようだ。専門分野は、環境、文化、社会だという。今度、環境関連の本を出版するそうだ。ここへは、別に取材しに来たわけではなく、休暇だそうだ。

この旅で初めて飲み屋に飲みに行ったが、こうして色々な話ができてとても楽しい。自分の拙い英語の練習にもなる。また機会があった時に行きたいものだ。

タケノコ

0 件のコメント:

コメントを投稿

Instagram